歴史
本坊大勧進
仏教の教えを
民衆にわかりやすく伝え
世俗の悩み解消に寄与する
大勧進の寺名は、人々に仏法を説き作善をなすように勧誘策進する「勧進」を意味します。
大勧進は、開山、本田善光公以来、代々善光寺如来さまにお奉えし、民衆の教化と寺院の維持管理にあたってまいりました。
弘仁8年(817年)伝教大師最澄さま(762~822)、が信濃路巡化のみぎり、善光寺に参籠され、爾来、天台の宗風により今日に至っております。
大勧進は天台宗大本山で善光寺25ヶ院の本坊であり、大勧進住職(貫主)は善光寺の住職も兼ねております。
善光寺由来
善光寺は日本最古と言われる仏像を祀るお寺であり、日本を代表する霊場です。
寺伝によれば、ご本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから百済国へ伝えられた後、欽明天皇13年(552年)に百済から仏教伝来の折りに日本へ渡ったと言われております。
当時の大和朝廷の豪族の中には、新たに伝わった仏教に否定的な人も多かったと言われており、崇仏・廃仏論争がございました。廃仏派の物部氏が一光三尊阿弥陀如来様を難波の堀江へと打ち捨てた後、信濃国司の従者として都に上っていた本田善光公が一光三尊の如来様にめぐりあいます。
本田善光公は如来様を故郷の信濃国へお連れし、最初は信濃国・飯田市の元善光寺(坐光寺)でお祀りされます。如来様は、皇極天皇元年(642年)現在の地(長野市)に遷座され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたとされています。
歴史
江戸以前
鎌倉時代の源頼朝、北条一族をはじめとした豪族が善光寺を深く信仰したのをはじめ、俊乗坊重源(1121-1206、奈良東大寺を再建)、親鸞聖人(1173~1262、浄土真宗宗祖)、一遍上人(1239~1289)、時宗宗祖)など多くの高僧が善光寺に参拝し
ました。
戦国時代には、上杉謙信(1530~1578)と信濃国の覇権を争った武田信玄(1521~1573)が善光寺の如来様を甲府に移します。現在の甲斐善光寺です。その後、武田家、織田家、徳川家が祀りましたが、豊臣秀吉(1536~1598)が方広寺(京都市)の御本尊としてお奉りいたしました。秀吉の死の直前、如来様が信濃の国へ戻りたいという旨をお告げになり、慶長3年(1598年)、善光寺の如来様は四十数年ぶりに信濃国へお戻りになられました。
江戸以後(大勧進の歴史から)
徳川家康(1543~1616)が江戸幕府を開くと、善光寺は寺領千石の寄進を受けます。
善光寺本堂は642年に初めて建立されてから11回も消失しましたが、輪王寺宮法親王により善光寺本堂の再建を懇願された善光寺別当・大勧進第73世貫主・慶運大僧正(1662~1729)によって、宝永4年(1707年)に現在の本堂(国宝)が建立されました。
天明3年(1783年)に日本の災害史上最大級の被害を出した「浅間山大噴火」が起こります。前年に東叡山寛永寺から善光寺別当・大勧進第80世貫主に赴任した等順大僧正(1742~1804)は、自ら群馬県嬬恋村鎌原の被災地に入り、被災者3,000人に食糧と銭を施し、共に念仏を唱え、悲しむ被災者に「融通念仏血脈譜」という「天国へのパスポート」となるお守りを新たに作成して被災者に授与します。このお守りが古典落語にもなった『お血脈』の由来で、全国から多くの参拝者が「お血脈」を求めて善光寺に参拝に訪れるようになりました。
等順大僧正は、「天明の大飢饉」に苦しむ民衆に善光寺の蔵の米を全て施し、天明5年(1785年)本堂にて御回向を実施します。
これが現在も7年に一度実施され、約700万人(2015年)もの参拝者が訪れる本堂で執り行われる「善光寺御開帳」の始まりです。
善光寺は「一生に一度は善光寺詣り」と、多くの人々が参詣されるようになり、今も多くの人々の信仰を集めております。