慶運大僧正

慶運大僧正

大勧進の名僧

慶運大僧正

徳川幕府の援助を受け巡国開帳を実施、国宝・善光寺本堂を建立した傑僧

慶運大僧正
国宝善光寺本堂は、
大勧進慶運大僧正が建立

堅牢な木造建築として東洋一ともいわれる国宝善光寺本堂は、宝永4年(1707年)当時の別当職・大勧進第73世慶運大僧正が心血をそそぐご苦労の末、建立されたものです。

慶運は、第5代将軍徳川綱吉公の重臣柳沢出羽守保明(後の松平吉保)の甥で寛文4年(1664年)、上総国(現在の千葉県夷隈郡)で誕生、のちに従一位大納言葉室頼孝卿の猶子となりました。9歳で出家し東叡山勧学寮の学徒として学ばれました。稀に見る聡明な知性と剛健な性格は、輪王寺宮法親王の篤い信頼を受けました。

大保福寺、谷中感応寺の住職を歴任後の元禄13年(1700年)12月、38歳の若さで善光寺貫主に任ぜられました。輪王寺宮法親王は、「国家安康」の願いから、その年の7月に消失した善光寺本堂の再建を慶運に懇願したのです。

善光寺貫主に任ぜられた慶運は、輪王寺宮法親王、徳川幕府の援助を受け、元禄14年(1701年)から宝永3年(1706年)に至るまで巡国開帳を実施し、十数万人もの善男善女の喜捨を仰ぎ、本堂再建費に充当しました。現代と異なり万事が不自由な昔のこと、苦難の連続であったことが想像されます。

慶運大僧正による巡国開帳が実施された場所
下総、安房、関東各州、奥州方面、武蔵、相模、伊豆、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、伊賀、大和、紀伊、和泉、河内、摂津、播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、 豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩、大隅、日向、豊後、伊予、讃岐、阿波、京都、丹波、播磨、美作、石見、丹波、丹後、若狭、越前、近江、美濃、福井、加賀、能登、越中、越後

第73世慶運大僧生略年表
善光寺本堂
宝永4年(1707年)
8月16日、
善光寺本堂の落成式が挙行されました。

東叡山輪王寺宮一品公弁法親王は、御名代を善光寺に遣わせ、御父君御西院天皇、御筆の紺紙金泥の般若心経一貫をご寄進されまして、名刹復興の偉功を表彰されました。

遷化から164年後の明治26年(1893年)に、
「大僧正」を追贈されました。

同年9月15日、慶運は江戸城に将軍徳川綱吉公を訪ね、本堂子建立の大事業を果たしたことを機に、善光寺貫主辞任を願い出ましたが、輪王寺宮法親王及び将軍家は慶運の人柄を惜しみ、お許しになりませんでした。

慶運大僧正

同年9月15日、慶運は江戸城に将軍徳川綱吉公を訪ね、本堂子建立の大事業を果たしたことを機に、善光寺貫主辞任を願い出ましたが、輪王寺宮法親王及び将軍家は慶運の人柄を惜しみ、お許しになりませんでした。

6代将軍徳川家宣公の時代である正徳4年(1714年)、意を決した慶運は住職を固辞し、法親王もやむを望みを叶えて下さり、根津昌泉院に移られ余生を過ごされました。この時に権僧正に任ぜられました。

享保14年(1729年)5月24日、66歳にて遷化されました。
遷化から164年後の明治26年(1893年)に、「大僧正」を追贈されました。

善光寺本堂の裏にある歴代住職の御廟の一隅に、「大僧都 慶運」と刻まれた大自然石があたかも本堂を見上げるように建っております。
一代の傑僧「即住院贈大僧正慶運大和尚」のお墓です。

善光寺大勧進事務局

〒380-0851 長野県長野市元善町492
受付時間 8:30~14:30

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