等順大僧正
等順大僧正
大勧進の名僧
等順大僧正
「浅間山大噴火」「天明の大飢饉」救済に尽力、光格天皇に三帰戒・十念を授け奉った生き如来
「本堂における御開帳」
「お血脈」の歴史は
等順大僧正に由来
善光寺本堂で七年に一度執り行われる「御開帳(居開帳)」、古典落語にもなった「お血脈」の歴史は善光寺別当大勧進第80世・等順大僧正に由来します。等順は寛保2年(1742年)、坂口観了の子として地元信濃国善光寺町で誕生しました。
遠祖は後北条氏の鉢形城城代家老・苅部豊後守康則(保土ヶ谷本陣の祖)です。
宝暦3年(1753年)、等順は全国から英才が集結した大本山・東叡山寛永寺の筆頭塔頭である護国院に11歳で入寺し、周順大和尚に師事致します。
安永4年(1775年)、比叡山延暦寺竜禅院住持に拝命されます。
安永7年(1778年)、36歳の若さで東叡山寛永寺護国院第13世を拝命された優秀なエリート学僧でした。
天明2年(1782年)、大納言・葉室頼熙卿の猶子となり、清浄林院を賜わり、故郷の信州善光寺別当大勧進80世住職(貫主)に就任します。江戸時代で地元信濃国出身の善光寺住職は等順ただ一人です。
天明3年(1783年)浅間山大噴火の救済に尽力
「お血脈」は評判を呼び、民衆の間に善光寺信仰を布教
群馬県嬬恋村鎌原観音堂にある等順大僧正顕彰碑と、平成29年(2017年)の235回忌法要時に善光寺長臈・村上光田大僧正が奉納した回向柱
等順が東叡山寛永寺から善光寺に赴任した翌天明3年(1783年)、日本災害史上最大級の被害と言われる浅間山大噴火が起こり、約1,500人の尊い命が奪われました。
570人の村人のうち477人が亡くなった上野国鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原)に駆け付けた等順は、悲しみにくれる被災者を前に物資調達に奔走し、30日間一緒に念仏を唱え回向(供養)し、被災者一人につき白米五合と銭50文を計3000人に施しました。
そして、被災者にお守りとして融通念仏「血脈譜」を新たに作成して授与しました。数多くの名人落語家が演じた古典落語「お血脈」の由来です。
等順はいまも群馬で語り継がれている「浅間山噴火大和讃」の中で、被災者の夜毎の泣き声を止めた「東叡山の来迎の聖」として唄われており、鎌原観音堂には等順の顕彰碑が建立されております。
「お血脈」は評判を呼び、等順一代で約180万枚が授与され、民衆の間に善光寺信仰が広がることになりました。
お血脈ページを見る天明大飢饉に苦しむ民衆を救済、全国で回国開帳を実施
等順は、天明4年(1784年)善光寺にて浅間山大噴火追善大法要を実施し、被災者1,490名全員の名を記した経木塔婆を被災地に送ります。
そして、浅間山大噴火三回忌の年である天明5年(1785年)、本堂にて初めてのご回向を実施いたします。これが現在の本堂で最初に執り行われた御開帳(居開帳)となりました。
等順は、天明の大飢饉に苦しむ民衆に、善光寺の蔵米を全て施し、飢餓から救いました。大勧進大門前の放生池は、救われた民衆が等順への恩に報いるために集まり掘った池です。
等順は極楽への道筋をわかりやすくするために善光寺を整備しており、放生池は仏教の不殺生の戒めに基づいて生き物を池に放し、慈悲の実践を意味する極楽へ行く儀式「放生会」のための池です。
夏には2000年の時を超えた大賀蓮の花が綺麗に咲いております。
寛政6年(1794年)五重塔再建を志した等順は如来像を奉戴して4年間に及ぶ回国開帳を実施します。五重塔は、「地・水・火・風・空」の5つの世界から成る仏教的な宇宙観を意味する建築物です。遠くは鹿児島まで出向いたこの回国開帳は、各地の藩主、民衆から大歓迎され、岐阜宗休寺(関善光寺)など多くの寺院が善光寺と結びつきました。
島原では、藩主の願いによって雲仙普賢岳噴火被災者の融通念仏供養を浜辺で行い、「生き如来」と崇められました。
各地で自然災害、飢饉が相次いだ時代であったことから、民衆の気持ちを軽減するために、各地に名号碑が建てられました。
等順大僧正による回国開帳が実施された場所
飯山、十日町、小千谷、長岡、三条、糸魚川、富山、金沢、福井、小浜、田辺、福知山、鳥取、米子、松江、萩、勝山、笹山、大阪、明石、姫路、龍野、赤穂、岡山、広島、小倉、博多、唐津、大村、長崎、島原、佐賀、熊本、久留米、秋月、宇土、水俣、出水、鹿児島、佐土原、高鍋、竹田、臼杵、佐伯、宇和島、大州、松山、今治、丸亀、倉敷、笠岡、高松、徳島、淡路、兵庫、尼崎、京都、彦根、大津、関、美濃、木曽、松本、飯田、高遠、佐久
京の都で皇室に尽くした「生き如来」等順大僧正
寛政9年(1797年)、等順は京都の御所に参内、光格天皇に三帰戒及び十念を授け奉ります。三帰とは仏教において仏・法・僧の三宝に帰依することで、神仏や高僧を深く信仰して、その教えに従い、その威徳を仰ぐことを意味します。等順は両女御所に説法を行い、天台座主の青蓮院尊真法親王より古い御輿を御下賜ります。
寛政12年(1800年)、11代将軍徳川家斉公に拝謁しますが、「寛政の改革」により世の中が緊縮経済の状況下のため、五重塔の再建は不許可になりました。その後、京都の御所に参内して光格天皇に拝謁、三千院より大原融通堂の再建協力の依頼を受けます。
享和元年(1801年)、等順は公澄王親王より法華経の「常不軽菩薩」に由来する「不軽行院」を承り、京都の養源院第11世住職に移ることを命じられます。等順は在職20年で善光寺別当を退任して上洛します。
享和3年(1803年)、等順は僧官の最高位である「大僧正」に昇任し、京の都にて皇室の方々の精神的救済に尽くしますが、文化元年(1804年)3月25日遷化されました。
災害が相次いだ時代、 「不軽行院 性谷 等順大僧正」による民衆救済活動は、「一生に一度は善光寺参り」と言われるように、善光寺信仰が庶民の間に広がる大きなきっかけとなったのです。