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浅間山大噴火被災地で法要

2023/11/17

栢木寛照貫主が、天明三年浅間山大噴火被災地で法要

~大噴火発生時の等順大僧正以来240年ぶりの現職住職訪問~

令和5年(2023年)11月8日、善光寺大勧進第104世貫主の栢木寛照大僧正が、天明3年(1783年)浅間山大噴火の被災地である群馬県嬬恋村の鎌原観音堂を訪問、浅間山大噴火240年の供養を行いました。 現役の善光寺大勧進住職が嬬恋村鎌原を訪れ供養するのは、浅間山大噴火直後に被災地・上野国鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原地区)に駆け付け、被災者の救済に尽力した「生き如来」等順大僧正以来240年ぶりです。

等順大僧正は、東叡山寛永寺から善光寺へ入山した翌天明3年(1783年)に発生した浅間山大噴火の直後、村人570人のうち477人が亡くなるという甚大な被害を受けた鎌原地区に駆け付け物資調達に奔走、鎌原観音堂に回向柱を建て30日間一緒に念仏を唱えて回向します。そして、被災者一人につき白米5合と銭50文を計3000人に施し、悲しみにくれる被災者の心のケアをするため融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに作成して被災者に授与しました。数々の名人が演じる古典落語「お血脈」の由来です。

天明三年(1783年)の浅間山大噴火被災直後に鎌原観音堂で行った30日間の回向で 等順大僧正が建立した回向柱。鎌原観音堂に今も残っている。

天明4年(1784年)善光寺にて浅間山大噴火追善大法要を実施して、被災者1,490名全員の名を記した経木塔婆を被災地に送ります。これは吾妻川沿岸の犠牲者数の根拠となっております。    浅間山大噴火三回忌の年である天明5年(1785年)、善光寺本堂に回向柱を建てて初めてのご回向を実施しました。現在の善光寺本堂で行われる御開帳の形はここから始まりました。      等順大僧正は今も鎌原地区で唄われている「浅間山噴火大和讃」の中で、被災者の夜毎の泣き声を止めた「来迎の聖」として登場しており、鎌原観音堂には等順大僧正の顕彰碑が建立されております。

等順大僧正自筆の「南無阿弥陀仏」の名号が刻まれている顕彰碑。右の回向柱は善光寺長臈・村上光田大僧正が平成29年(2017年)の235回忌に奉納。

法要前に鎌原観音堂奉仕会会長の鎌原郷司氏より説明を受ける僧侶

栢木寛照貫主は善光寺へ入山してから、師僧・叡南覺照千日回峰行大行満大阿闍梨の弟弟子である村上光田大僧正や、晋山式に列席した群馬地域学研究所の手島仁先生から、等順大僧正の民衆救済の業績を学んでおりました。                               本年5月14日に群馬県文書館の「浅間山大噴火240年展」を視察した時には、阿部潤様の詳しい解説を聞き、関心を深めておりました。                            そして「一生に一度は善光寺参り」と言われる今日の善光寺信仰を確立された「善光寺中興の祖」等順大僧正の民衆救済の精神を受け継ぐためにも、大噴火240年にあたる本年内に浅間山大噴火の被災地・鎌原を訪問して供養する意向を示しておりました。

鎌原観音堂の「生死を分けた十五段」を登る栢木貫主

鎌原観音堂奉仕会会長、鎌原区長、嬬恋村教育長(嬬恋村長の名代)、嬬恋村郷土資料館館長ほか地元の方が参列する中、導師の栢木貫主をはじめ計5人の僧侶が被災者の冥福を祈りました。

栢木寛照貫主は記者団の取材に、「今の善光寺の基礎を作った等順大僧正が心を寄せたこの観音堂で、被災地で民衆救済に尽力した精神を受け止め、心を込めて犠牲者のご供養をさせていただきました。今回を契機に地域の皆さまと交流して御縁を深め、善光寺の次代に等順大僧正の民衆救済の精神を継承していきたい。」と語りました。

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善光寺大勧進事務局

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